がんサバイバー50代主婦 突然おひとり様になりました

夫が自ら旅立って生活が一変。まだまだ生活が落ち着かないけどリスタートを見てください

壮大なるドッキリだったら

時々思う。

今までの事 全部どっきりでしたー!

そうだったらどんなにいいかと。

一年半かけて 周りの人みんなに協力してもらい 私を驚かすという企画。

ごめーんと夫はニヤニヤして登場。

私は激怒。こんなことして許せん!と。

でもそれからは私は号泣。会えないと思っていたのにまた会えてよかった。

夫が不安な時にはいつでも優しくむぎゅーしてあげよう。

いろんなことを大事にすることを決意して新たな日々を迎える・・

 

なんてね。

こんなことは考えても仕方ないね。

でも

ドッキリはないけど

いつかきっと また会えると思う。

それまで私はもっと魂を磨いて 進化して 頑張ったよーと夫に報告できるようにしたい。

その日まで踏ん張るよ!

 

いよいよ一人暮らしが始まりました

長崎からの荷物は届いたのですが 1年居候していた妹宅にある荷物は少しずつの移動で まだ寝泊まりは妹宅でしていました。

新居で万一寝れなかった場合 仕事のある日はしんどいので 仕事が休みの前の日からスタートにしようと決めました。

年齢のせいか なぜか寝れないこともちょくちょく。

ヤクルトの力を借り 最近はまあまあ寝れてるかな。

 

一人でいる2DKは広く感じてしまいます。

あんまり死角が多いのは一人じゃこわいなと 最低限の2DKにしたけれど それでも広く感じてしまう。

でもきっと慣れていくはず。

慣れは 私は神様からのギフトと思ってます。

上手に 慣れる ということを使っていくと最強と私は思います。

私が乳がんで左乳房を全摘し 初めて鏡で自分の姿を見たときはそれはそれはショックでした。涙もでないくらいでした。

そんなショックなことでも 今ではそれが普通なのです。

傷跡がある 平らな私の左胸。これが私の体です という感じかな。

そんなことも慣れていったんだから 今度もきっと大丈夫。

来年の今頃は 一人の生活が超快適になっているんじゃないかな?

などと考えながらの一人の夜は 無事眠気もやってきて すんなり眠ることができたのでした。

一度寝れたらもう大丈夫。成功体験があればこっちのもの。

さあこれからの一人暮らし。

楽しいこと何しましょ。

とりあえず 部屋はオール自分の好みで揃えられます。

お部屋作りからしましょうか。57歳ですが 気分は一人暮らしを始めたOLくらいなつもりです。

でも冷蔵庫 洗濯機 家具やらもろもろの出費が結構かかり いくらになるのかちょっと怖い・・

とにかく新生活のスタートです!

乳がん 今年3回目の検診での覚悟

今年になって3回目の定期検診に行ってきました。

3か月ごとの定期健診は 超音波検査 マンモグラフィー 肺のレントゲンを年一回ずつのサイクルでやっています。それと毎回の血液検査があります。

一番ドキドキするのは前回終わった超音波かな。先生の手が止まると毎回緊張します。

今回は肺のレントゲンのサイクルです。

いつもの様に診察前にレントゲン。

正面を撮り、次は横。

・・・あれ、技師さん出てこない。

しばらくして「糖尿病などの治療で何か張ったりしていませんよね?」と技師さん。

「?はい。」と答えたけど レントゲン室から出てから

(どういうこと?)(何か映ったってこと?)(きっと映ったんだ・・)

と脳内は乳がん再発のことでいっぱいになりました。

いや、アリミデックス飲んでるしそう簡単に再発しないんじゃない?また手術するのかな・・

いや再発じゃなくて肺の疾患かも。そういえば1月にコロナになったし後遺症とか?

うーんでもじたばたしても仕方ないな。ここまでいろんなこと乗り越えてきたし 今度はママもパパちゃんも守ってくれてるし絶対大丈夫!

命にかかわることがあっても とりあえず引っ越し終わって荷物はこっちにあるしなんとかなるな。なんとかなるなんとかなる。

見える事だけに惑わされないで 病気の向こうを信じよう。

私には私に必要なことしか起こらない。何があっても絶対大丈夫!

診察までの約2時間 頭の中はこんな感じ。

診察が終わっても しっかり歩いてる自分をイメージして自分を奮い立たせました。

長い待ち時間の後 やっと私の番。覚悟を決め診察室へ入ります。

9年目のお付き合いになる先生は 最初の告知や抗がん剤治療を決める時 「残念だけど‥」と話し始めていました。

そのセリフが 

でないよ?

「はい 今回も異常ありません」(え????)

技師さんに言われたことを伝えると、なんかしてはいけないレントゲンで事故があったらしく そういうことを聞くようになったとか。

それならそれで 撮影前に聞かない??と思ったけど 先生には関係ないので ではまた次回!と元気に私は退出したのでした。

はああ・・あの2時間返せ!

でもでも 改めていろいろ考えました。その機会だったのかな。

乳がんはおとなしくしてくれてるけど 他の体の故障はいつどうなるかわからない。

これから一人暮らしになるから 万一のことも考えないと。

今まで頼りにならないと思っていた夫に 心はどれほど頼っていたのか。

パパちゃん 私気付くの遅いね。今までありがとうね。そしてこれからも守ってね。

これからもいろいろあるかもしれない。

でも 見える事だけに惑わされないで 守られている自分を信じよう。

私がこうありたいと思ってる 何事ににも動じないでドンとしてる私に 少しだけ近づけたかなと思えた一日でした。

 

 

 

引越し完了。そして義父母との別れ

九州は台風がどうなるかと心配だったのですが 引っ越し当日のお昼くらいには風も収まり 何とか予定通り運送会社さんにも来てもらえて荷出しも完了。

愛車も陸送で同時にお願いすることにしました。

荷物整理をしている時 義母がたびたび2階にやってきては涙ぐみ。

「もう来ないわけじゃないですよ、まだまだ来ますからね」と言いつつ私も泣いて。

去年の7月と8月の2か月は義父母と私は一緒に暮らし それから私は千葉の妹宅で居候生活し始め 3か月おき位にPCR受けて千葉から長崎へ移動し 10日間位滞在していたような1年でした。

夫がいる頃は 夫のお母さん、という感じの距離があった気がします。

去年の5月に夫が亡くなってからは 私がいることで少しでも悲しみから気が紛れればと接していたので また違った関係性が出来たように思います。

夫を福岡から長崎へ連れて行った時 私はご両親から「どうして目を離したんだ」と責められるのを覚悟していました。

逆の立場だったら 夫が実家にいてそのようなことがあったら 私はきっとご両親にそういったと思います。

でもご両親はそんなことは言いませんでした。

泣きながら「大変だったね」と。

その後も義母は気丈に弔問客に接していて そんな姿を見ていたら申し訳ない思いでいっぱいになってきて 私は「お義母さんごめんね!」と言いながら義母に抱きつき 2人でしばらく泣いていました。

夫と4人で住むはずだった家で 夫のいない3人で過ごした時間は悲しく でも優しい時間でした。

それぞれが 言葉には出さないけどいたわりあっていた時間だったと思います。

義父母たちよりも私の方が夫と一緒に過ごした時間が長くなっていましたが 血のつながった大事な息子を亡くしたんですから その悲しみは計り知れなかったでしょう。

でもお二人で支えあって なんとか生きていこうとされているようでした。

そんな義父母とも私の引っ越しで少し会う頻度は減ってしまいます。

でも長崎は私にとっても大切な場所。

義父母とこれっきりになるわけではありません。

永遠の別れではないのでね また新しい形でのスタートです。

おととい千葉の新居に荷物も到着しました。

妹の家から少しずつ荷物を移して 新居の生活へとシフトしていこうとしているところです。

長崎の家から見える朝日は希望でいっぱい!



 

 

新居のお掃除をしながら

結婚生活スタートから数えると 8回引っ越しを経験しています。

千葉⇒長崎⇒北海道⇒千葉⇒兵庫⇒北海道⇒千葉⇒福岡⇒長崎

この間 家族が一人増え また二人に戻り そして今度一人に戻ります。

最初に戻るだけのことだー!なんて泣きながら強がってみたり。

妹もむこうのご両親も 娘と一緒に住んだら?というのですが やっとの思いで空の巣症候群を乗り越えたのだから今更・・という感じです。

もういずれ 遠くない将来娘は結婚して 新しい家族を作っていきます。

それがわかってるのに わざわざ寂しくなる選択はないと私は思うのです。

今のまま 時々泊りに来たり二人で旅行行ったり それで十分。

娘は娘の人生を歩んでもらわないとね。

 

9回目の新居のお掃除をしながら 今までの引っ越しを思い出してました。

夫は作業が早くて なんて頼りになる人だろうと引っ越しの時だけは?思ってました。

でも早い分 要るものを捨ててしまったり どこへやったかわからなくなったり そんなことでよく私は文句を言ってました。

キッチンに置いていた組み立て式のステンレスのラックは 毎回解体組み立てで夫が大活躍。まあまあの大きさだったので大変だったろうなあ。

もう私一人では必要なくなったので 今回は処分してきました。

知らない土地に移っても 夫と娘がいれば少しも寂しくなかった。

ここではどんな楽しいことがあるかなあと 環境の変化を楽しんできました。

実際どこに行っても楽しい思い出がたくさん。

官舎生活で人とのトラブルもなかったし いろいろなとこにも行けて いろんな経験もさせてもらいました。

夫と出会わなかったらなかった生活です。

それだけでも夫に感謝。

感謝しながら 今までとは違ってひとりで掃除をしていたら ああひとりなんだなあと 寂しさの波が押し寄せてきてしまいました。

ひとりでずっといる方はそれが普通のことだけど 26年一緒に暮らした人が突然いなくなってひとりになるのは ここからのスタートなのでなかなかのことです。

これからは全部 家でのことは自分でしなくてはいけません。

パパちゃん 寂しいよ。新居で早速泣き出してしまいました。

 

でも そうやってひとりで生きてきたたくさんの先輩方もいらっしゃる。

大丈夫 私だけが出来ないはずはない。ひとりでも生きていける。

必ず パパちゃんが見守ってくれている。

ひと泣きしたらまた勇気も湧いてきて復活!

さあ レイアウトどうしようかな。

今までは引っ越しに備えて あまり家具にお金をかけてきませんでした。

今回は最後かもしれないから ちょっとおしゃれなチェストにしようかな なんて

ネクストステージを楽しく過ごすため いろいろ模索しています。

一人暮らしスタートへのスタート!

昨年の8月終わりから始まった、千葉の妹宅での居候生活もはや1年。

私の家財道具は長崎の家に置いておいて、季節ごとに取りに行った洋服と最低限の必需品で過ごした1年でした。

時々食事の支度はしてたものの、すっかり妹に甘えてしまいました。

一周忌も過ぎたので、そろそろ私も一人暮らしの事考えなくちゃなと、本格的に物件探しをスタート。

この1年、思い出しては不動産のサイトを見ていたのですが、なかなか条件に合う物件がなくて。

妹宅に近くて、一階以外。窓を開けたら緑が見える。できれば公園近く。1DK以上。

これだけのこだわりなんですけどね。

だけど妹宅は駅から7分ほどの駅近なので、その近くでその条件は意外とないんです。

ほとんどが窓を開けたら隣の建物が目の前という感じ。

そういうところに慣れていたらなんとも思わないのでしょうが、27年の官舎生活は、終わってみてから気づいたのですが結構恵まれていて。

窓を全開すれば風通しも見晴らしもよく、玄関まで開け放したら夏はクーラーなしでもいけるくらい。通る人は知れてるから防犯もそんなに気にすることもない。

ベランダも広く、椅子を置いて日向ぼっこしながらのコーヒータイムは至福の時間だったり。

それが普通でした。

一般のアパートはそうもいかなくなります。

夜は窓の開けっ放しは出来ないでしょう。一人用の間取りでは風が通るつくりも難しそう。玄関開けっ放しはもってのほかでしょうね。

ベランダがなかったり、あってもすぐ隣の建物が目の前で

一人での生活だとそんなことも変わってくるんだなあと、今までどんなに恵まれていたのかしみじみ思ったり。

でも仕方ありません。

きっと、今までとは違う心地いい住まいをパパちゃんがめぐり合わせてくれるに違いない!そう信じていたところ、ぽーんと、いつも見ているサイトで新しい物件が。

場所だけが理想よりちょっと遠いけどあとはまあまあ。

ダメもとで見るだけ、と思い見せてもらったら思いのほか悪くない。

悪くないというかダメな理由がない。公園の前ではないけど緑は見えるし、妹宅への行き来も近道がある。

ということで、ぽんぽんと決めて契約も終了。

9月2週目に長崎から荷物を出し、住民票も千葉に移します。

 

思えば26年前、遠距離恋愛を経ての結婚が決まり、千葉から長崎へ引っ越しました。

26年前、希望にあふれて長崎へと旅立った私。

今回は、夫とのこの世での生活の希望はなくなってしまったけど、きっと違う希望を見出せることを信じて長崎から戻ってこようと思ってます。

 

 

一年が経ち・・

偶然にも、夫の命日あたりに夕日が入り口の真ん中になるらしいです


新緑の美しさが体にパワーをみなぎらせてくれる大好きだった5月は、私にとって特別な月になりました。

結婚記念日と、夫を見送った5月。

去年のあの、突然やって来たお別れの日から1年が経ちました。

5月17日、一周忌の法要のために千葉から長崎に移動しました。

空港から家までの道のりをバスに揺られながら、この一年のことをいろいろ思い返していました。

去年、葬儀は夫を福岡から長崎まで連れていきそちらで行い、そのあと私は福岡と長崎を行き来し、いろいろ手続きを済ませ、7月に長崎に引っ越しました。

家があるのは長崎の田舎のほうですが、新婚生活は長崎空港近くの官舎でスタート。

長崎は、私たちの歴史のスタートでもある思い出深い土地です。

去年はそのスタート地点の長崎に一人で戻り、家近辺を車で走っているだけで「どうして一人でこんなところを走っているんだろう」と泣いてばかりいました。

新婚時代に過ごしていた場所近くに行ってはもちろん悲しい、寂しいの嵐。

関係のない集合住宅の洗濯物を見ただけで「ああ、もうこういう家族のいる生活はないんだ」と思い、運転しながら泣いて。

夕方には、夫が元気な時には二人で散歩し、夕日を見ていた海辺でまた泣いて。

しばらくはそんな感じでした。

そんなある日、夫の夢を見ました。

夫はいつもと同じ。生活も福岡でのその時のまま。普通の、いつもの会話をしただけの夢でした。

「あれ?もしかして普段わからないだけで、いつでもそばにいて、今までと変わらないの?」そう思えてきて、それから少しづつ力が湧いてくるようになっていきました。

部屋にあるたくさんの家族写真。はじめは、もうこれが増えることはないんだと、悲しいだけでした。

でもだんだんと、この幸せだった時間は確実にあった時間なんだと思うと不思議と勇気が出てくるようになっていきました。私たちには積み重ねてきた27年がある。それは簡単に、彼が死んだからって消えて無くなってしまうことはない!それが私の中で大きくなっていき、変わらないものとして自信のような支えとなってきました。

これからは今までのように、二人で何かを一緒にすることはどうやってもできません、この世では。

でも、これからは形を変えて、まだまだ私たちの縁は続いていくと思えるのです。

すべて終わったわけではない。そう思うと、一人でもなんだか寂しくない気がするのです。

運転しながら泣いてばかりいた家から大村市の間の道も、もうほぼ泣かなくなりました。今は、まだまだ終わってないという希望があるから。

パパちゃんの笑顔が見たい。美味しいもの食べさせたい。いろんな話したい。

時々そんなことを思い、それはかなわないことと思うとしょんぼりもします。

でもきっと、そういう形ではなくて違う幸せが私たちを待っていると、今は信じられるのです。

 

去年、生まれて初めて絶望ということを経験しました。

朝起きて、未来を思うとそこにはずっと夫がいない、、真っ暗闇がそこにはありました。

でも今はいろんな支えのおかげで希望があります。

あなたにも必ず希望を思い出す時がくるよ。